山城守国清の概評を読んでみたら


初代山城守国清は駿州三代島田助宗の子で始め島田吉右衛門助宗と云う。後信州松代に移住、それより越前へ行き京へ上って堀川国広の門人となる。
彼は不幸な刀工の一人で、その技量は勝れているが名を世に宣伝されないため、作品は多く他の上作に化けされ、その多くは国広であり、康継にも化けたものがある。在銘で残っている物に逸品がないことは誠に気の毒である、(新刀古刀大鑑)等とありました。


「一」については
1,菊紋に「一」を添えるのは二代と云う説もあったが、年紀のあるものが少なく初二代の銘振りはよく似ているので判別は難しい。(日本刀鑑定要訣)

2,『鍛冶銘早見出』にも『新刀一覧』にも「菊一ヲキル」とあるが、初代は菊紋だけであり「一」を切るものは二代以降と考えてよいと思う。(二日前に読んだ本を思い出せない)

3,二代以降は菊紋に一を添えるが、二代には一を加えないものがある。三代の没年は二代に遅れることわずかに二年で、二代の後期の作刀は三代の代作が多かったと思われ、銘字、作風などで二、三代を分けるのは困難である。(刀工大鑑)

4,初代国清には、必ず菊花紋をきってありますが、菊花紋の下に「一」を切った、俗に「菊一」銘と称するのもは、初代、二代にはなく、三代以降のものです。・・・前述の事情から二代、三代の作品を区別することは困難です。(日本刀の研究と鑑賞)

5,だいたいハバキ下に菊花紋を切るが、これは山城大掾受領とともに朝廷から許されものであり、菊花紋の下に「一」をきるのは初代にはほとんどなく、二代以下のものである。ただし、二代国清作にも菊紋だけで「一」のないものもある。(新版日本刀講座 第四巻)

6,国清の項で、「一」の字については不明であるが、これは拝領云々ということではなく、勝手に使用したものであると思われ、一の字の意味は一文字という意味ではなく、第一等、第一人者などの誇りの気持ちを表示したものであるかも知れない・・・(寒山刀剣講座)
更に、初代作で「一」を切っているのは頗る少ないと云っているが、二代からとは云っていない。

などとあり、初二代の銘振りがよく似ていて、二・三代も似ているとなると困っちゃいますね。


因みに、新刀大鑑では初代は菊紋のみの紹介で、二代は「一」を添えたものを五振り紹介しているが、三代の紹介はない。
刀工大鑑では、二代に菊紋に一を添えた銘文を紹介している。これにも三代の見出しはない。


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刀剣美術799号鑑定刀入札講評では、
『古今鍛冶備考』には初代の項に「ハバキ元に菊一文字切」とありますが、同書よりも古い「新刀弁疑」には寛文十二年より菊一文字を切ると記され...概ね現在では「一」をきるものは、二代以降の作と考えるの説が有力です。(初代没年は寛文五年)

代別には諸説あり、代作代銘説もあるなどその区別は難しいと云っています。
**********************************最終編集日:2023年11月10日

作成日:2023-08-15

Expiry date:2053-08-15

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