粟田口近江守忠綱 初二代の概評を見る


・近江守忠綱
...本姓は浅井氏で、始め近江大掾、のち近江守を受領し、寛永二十一年二月から、延宝四年六十七歳までの年紀作や、『於播州作是』の作品などを残した大阪新刀の初期を飾った良工の一人で、生没は不明ですが、その活躍期はほぼ推定されます。
特に、二代を継いだ彫刻の名人、一竿子忠綱の父としても名高く、親忠綱とも呼ばれています。
一説では、粟田口国綱の後裔といわれ、『山城国住』銘があることから、山城に住し、のち播州姫路に移住し二代目一竿子忠綱の時代に大阪に移ったといわれ、また、通説では、近江国の石堂系から別れた播州石堂系に属し、播州姫路に産まれ、のち京都に出て、更に大阪に移住したともいわれており、いずれにしても、備前伝の匂い本位の丁子乱を得意とした大阪鍛冶です。
作刀は、この時代としては割りに優しい先の細った姿に、焼頭の揃った、出入りの少ない、匂い本位の互の目風の丁子乱を多く焼き、大阪焼出しはまだ見られません。(一竿子忠綱は大阪焼出しとなる。)
特に帽子は、丁子乱でありながら古作一文字のような調子ではなく、芸のない、小丸下がりのくっきりした大阪帽子です。
時にある直刃や、互の目乱の場合でも、他の大阪新刀にくらべて、沸の少ない備前伝工であることを示しています。地肌は杢目肌ですが、少し荒めの肌合いです。
中心は丸棟が多く、化粧鑢は施していません。刀より、本造脇差が多いです。
結論的に再記しますと、初代忠綱は、匂い本位の備前伝の丁子乱を得意としていますが、河内守国助のような拳形丁子乱ではなく、焼頭の揃った互の目丁子風の乱や、丁子乱が余り乱れない丁子乱に、沸足が長く、地肌はいわゆる大阪肌で、鎬地に柾目肌が現れます。
銘は『粟田口藤原忠綱』、『粟田口近江大掾忠綱』、『山城国粟田口忠綱於播州作是』などと必ず『粟田口』を冠しています。
二代目(一竿子忠綱)の『粟田口近江守忠綱』との銘字の区別については、『綱』の字の右側の『岡』の切り方が図のように切り、二代一竿子忠綱は中年以降は判然たる『岡』の字になります。
また、『忠』の字が逆鏨となっていて、初代の普通の切り方とは違っているなどが古書に記載されています。

・一竿子忠綱
名は浅井万太夫、別号を一竿子、合勝軒。初代忠綱の長男で、父同様近江守を受領し、特に彫刻の名人としても名高い刀匠です。
ただ、残念な事には、その生没行動などの詳細が不明です。裏銘のある作品は、寛文十二年紀が最も古く、正徳六年紀の作刀が一番新しく(一説には正徳裏銘は三代作とも、)元禄時代を中心としてよく活躍した刀工です。(元禄年紀の作品が一番多い。).....
作柄は、姿格好の頃合いないわゆる大阪新刀姿ですが、しいていえばやや身幅の広い先反りのある、よく平肉のついたものです。
刃文は、中期頃迄は、初代忠綱に似た匂い出来の丁子乱ですが、後半からは、次第に丁子乱の頭の不揃いな足長丁子乱となり、晩年には、沸本位の焼幅の広いのたれ乱に、彼独特の互の目の入った華美なものや、助広風の濤瀾乱を焼いています。
この華美な互の目風の濤乱は、初めは大阪焼出しを見せてから、一定の焼刃模様を繰り返して物打ちに及んでおり、そしてその一つの大乱れの中に、互の目が四、五個入り、然も、この沸足は始めは太く長く順に小さくなっています。
また、晩年には、助広の濤瀾乱によく似た作も見ますが、この場合には焼頭の揃った、足長丁子乱が交じるなど刃取方法を異にしています。
特に一竿子の沸は、同じ大阪沸でも、他の刀匠程荒くなく(元来が父より伝授された備前伝の丁子乱ですから、)叢沸状態などは見られませんが、助広の銀粒のような冴えた沸には及びません。
なお、前述した通り、寛文、延宝頃の初期作には、匂い本位の備前伝の、少し小詰んだ足長丁子乱があることを忘れてはいけません。(希に出来の余りよくない直刃もある。)
帽子は、例の大阪帽子の小丸下がりで、判然とし、返りは浅いです。彫刻は名人ですが、その初期作の『粟田口近江守忠綱』時代には少なく、もしあればおっとりした丁寧に深く彫ったものです。...
日本刀の研究と鑑賞より


・粟田口一竿子忠綱彫同作
...処々地刃を跨ぎながら断続的に長く一筋の金筋が看取される点も同工の大きな見所であり、これは表出の程度に差はあるものの、直刃や足長丁子の作風にも認められる特徴である。...
刀剣美術誌より最終編集日:2023年11月17日

作成日:2023-11-16

Expiry date:2053-11-16

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